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ti04.jpgOur Story

前田鼎教授時代 (昭和2年 – 昭和16年)

化学研究所の母体は,第一次世界大戦で輸入が途絶えた医薬品の製造法を研究するため大正4(1915)年に設立された理科大学附属化学特別研究所である。昭和2(1927)年「化学に関する特殊事項の学理及びその応用」を研究することを目的に大拡充され,京都大学最初の付置研究所として発足した。発足当時研究室は8つあったが,その1つが前田鼎(医化学系)研究室であった。まだまとまった建物のなかった化学研究所では,これら8研究室を理,工,医,農各学部に分散して置き,主任教授は全員学部教授(一部助教授)の兼任であった。前田鼎教授も医学部医化学講座教授であり、化学研究所教授(当時は所員といった)を併任した。また昭和5(1935)年には大阪女子高等医学専門学校長の兼務となった。昭和11(1936)年から2年間は京都帝国大学医学部長を勤めたが,昭和16(1941)年に第三高等学校長に任ぜられ,医学部教授を退職した。

研究テーマとしては,「酵素の特殊性に関する研究」と「内分泌の化学的研究」が掲げられ,後に「細菌および糸状菌の化学的研究」が主テーマとなった。


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前田鼎(まえだかなえ)教授昭和4(1929)年3月31日,
ドイツへ留学する内野
仙治助教授の見送りにさいして撮影。中央が内野~仙治,その右に前田鼎教授。

内野仙治教授時代 (昭和7年 – 昭和32年)

昭和4(1929)年、大阪府三島郡盤手村字古曽部(現高槻市,大阪医科大学の構内)に化学研究所本館が竣工するとともに,化学研究所に専任教授が置かれるようになった。その第1号として,昭和7(1932)年6月,当時医学部医化学教室の助教授でドイツ、フランス、アメリカでの留学を終えたばかりの内野仙治教授が選任された。化学研究所内の内野研究室は、同教授が東北帝国大学教授として赴任した間(昭和13年~16年)も,また昭和16年12月京都帝国大学教授(医化学)として帰任した後も存続した。この間内野教授は,昭和23(1948)年9月から同28(1953)年12月までの間,京都大学化学研究所長を,また昭和27(1952)年12月からは京都大学医学部長を2期4年間勤めた。昭和30(1955)年と同31(1956)年には滝川幸辰学長の外国出張中に京都大学学長事務代理を併任した。昭和26(1951)年4月から京都大学結核研究所教授を併任し,昭和32(1957)年3月停年退官した。

内野研究室では発足時から,「臓器(組織)の生化学的研究(後に病体生理化学)」が中心テーマで,後年「腫瘍組織」「リン脂質」「蛋白分解(酵素や産物)」の研究が追加された。


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内野 仙治(うちのせんじ)教授京都大学化学研究所報告(創立25周年記念号)(1952年)に掲載された内野研究室の紹介文(タイトルから納豆菌を研究していたことが分かる)。


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高槻時代の化学研究所の正門と本館建物。湯川秀樹博士と並ぶ内野仙治教授と化学研究所の所員ら(「湯川博士をストックホルムから迎えて」と添書されているので,昭和24(1949)年のものと思われる)。

早石修教授時代 (昭和34年 – 昭和56年)

定年退官した内野教授の後任として、昭和33(1958)年、米国国立健康研究所の毒物学部長であった早石修教授が医学部医化学教授として招聘された。それにともなって、化学研究所の研究室は、昭和34(1959)年、早石修教授へと引き継がれた。早石教授は、昭和36年から2年間大阪大学医学部生 化学第一講座,昭和45年から4年間東京大学医学部栄養学講座の各教授も併任し,昭和54年から2年間京都大学医学部長を勤めた。

早石研究室は、トリプトファン代謝、NADの生合成およびその調節とセロトニン生合成、ポリ(ADP-リボース)及びADP-リボシル化、酸素添加酵素、スレオニン脱アミノ酵素、ピリミジン生合成、アデニル酸シクラーゼなど広い分野の研究で輝かしい実績をあげた。しかし、早石教授の時代では,実験・研究は専ら医学部医化学教室で行われるようになっており、これらの研究は医学部でなされたものである。昭和56(1981)年3月、実際の研究が行われなくなっていた化学研究所の研究室は化学研究所に返還され、化学研究所医化学系研究室は一旦幕を閉じた。


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早石 修(はやいしおさむ)教授早石教授ご就任当時。写真左から西塚泰美,井唯信友,久野 滋,谷内 敞,早石 修,田代実,鈴江緑衣郎,竹下正純,木村隆一の各氏。

上田國寛教授時代 (平成6年 – 平成16年)

それから10年後,平成5年に至って,化学研究所が大部門制に改組される中で,医学系研究室の復活案が浮上した。選考の結果,京都大学医学部医化学講座出身で当時医学部臨床検査医学の助教授であった上田國寛教授が化学研究所教授として選出され、平成6(1994)年4月から新設の生体反応設計研究部門III(生体反応制御領域)を担当した。上田教授は旧医化学教室の担当する分子生物学の学生講義や演習の一部を受け持った。つまり,化学研究所医化学系研究室の形を変えた復活といえた。上田教授は、平成16(2004)年3月に定年退官するまで、また退官後も、日本遺伝子診断学会理事長などを歴任した。

研究テーマとしては、遺伝子診断,ポリ(ADP-リボース),アルツハイマー病,白血病などがあげられる。


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上田 國寛(うえだ''
'くにひろ)'教授
化学研究所本館



上杉志成教授時代 (平成17年 – 現在)

定年退官した上田教授の後任として、平成17(2005)年、当時米国ベイラー医科大学生化学・分子生物学部の准教授であった上杉志成が化学研究所教授に任命された。上杉の研究分野は、米国ではケミカルバイオロジーとよばれる。ケミカルバイオロジーは、小分子有機化合物の化学を起点とした新しい切り口の生物学であり、医学と化学を結ぶ研究である。京都大学の化学と医学には、輝かしい伝統がある。この二つの優れた分野の架け橋として、研究と教育に微力ながら貢献したいと願う。真に「独特」で研究者の「思い」が詰まった研究を目指す。

※この歴史記述は、上田國寛教授らによる京都大学医化学教室創設百周年誌への寄稿などを編集して作成された。(上杉志成)

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Last-modified: 2019-04-01 (月) 14:34:53 (172d)